個人的評価★★★★☆
ローマ人の物語、悪名高き皇帝たちの最終巻は皇帝ネロの治世
なんというか、塩野七生の描く皇帝ネロは、能力無くはないんだけど『皇帝』という立場を悪い意味で体現していて、例えばティベリウスまでいかなくてもクラウディウスにもあったような責任感というかそういったものが無い人物という印象を受けたなあ
公人であるよりも私人の側面が比較的前に出ているというか・・・
その結果が側近の離反による自殺だったのだろうか
塩野七生による皇帝ネロの評価はこんな感じ(カバーの銀貨についてから引用)
多くの分野にわたってなかなかの才能の持ち主なのに、それらはいずれも個別に発揮され、全体として何か一つの成果に結実していかない人がいる。
一昔前はマルチ人間と呼ばれたたぐいだが、言い換えれば、人間としてはいっこうに成長しないタイプでもある。人間は、仕事を一つ一つ成し遂げていくことを通じて成長する生き物なのだから。
というわけでマルチ型に属す人々は、心の奥深くに常に不安を隠し持っている。自分は何もし遂げていない、という不安だ。
この不安は、何かを行う場合に度を越すことにつながりやすい。皇帝ネロも、この種の一人ではなかったかと思っている。
一私人としてみれば、不幸な男だった。
仕事(Work)を人間性の実現として重要視する塩野七生らしい評価ではあるなあと思いながら読むとともに、自分もマルチ型人間かもしれないという自戒を持って読んだ(笑
また、今巻はタキトゥスへの考えを通じて、珍しく現代の知識人(特に左派知識人)批判とみられる叙述が散見された感じで、当時執筆中何かあったんかなあ?とか思いながら読んでいた。
では、現体制にとって代わりうる新体制提示できない場合、知的な反体制人はどこに、自らの道を求めるのか。
批判、である。それも、安易な。批判のための批判やスキャンダル志向に堕してしまうのは、それをしている人自身が、自分の言葉を信ずることができないからである。
研究者たちのよく言う『タキトゥスのペシミズム』の真因も、帝国の将来への憂慮ではなく、自身の考えの実現を望めないがゆえに生ずる憂愁に起因したと、私ならば考える。
繁栄する資本主義国に生きる、裕福なマルクス主義者にも似て。(P228から)
前段が、東京都知事選の直後としては、なるほどなあと思ってしまうw
これを奴隷化と断じるタキトゥスは、私には、先進国の左派知識人を思い出させる。
自分ではすべてをもっていながら、開発途上国の人々には、冷蔵庫や電気洗濯機や自動車を欲しがるから四六時中働くことになるのだと言い、本来の彼らの生活様式にもどるように説く、恵まれた人の言葉でも聴くような想いにさせるのである。
冷蔵庫や電気洗濯機がどれほど女たちの労働を軽減したかを、この人たちは考えてみたことはあるのだろうか(P232から)
この後は、ローマは約80年の混乱の時代に入っていく(その後五賢帝の時代)
どういった時代で、どう克服していったのか読むのが楽しみ✨